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2025年04月22日

トランプの「日米安保破棄」はブラフではなかった⋯「米軍がアジアからいなくなる」アメリカ国防権威の「衝撃論文」と、いま習近平が考えていること


米軍が東アジアからいなくなる


今が台湾を獲得するチャンス

いまのところ、トランプ大統領は対中国で「合成麻薬の流入対策」と「相互関税」以外に目立った政策を打ち出していない。

12万人の避難計画」は機能するのか

前章でも記した通り、中国ではいつ軍部が暴発してもおかしくない事態が進行している。アメリカの視界から東アジアが外れたいま、日本は戦後80年で最も「戦争」に近づいていると言っていい。


避難計画でさえ遅々として整えられない日本政府に、本当の危機を乗り越える力があるとは思えない。長年、「アメリカによる平和」に守られてきたツケを日本人が払わされる日は、思ったよりもずっと早く訪れてしまいそうだ。

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2025年04月19日

USAID関連について(2)

CopilotやChatGPTでUSAID関連で関わった日本の政治家を調べ
ましたが、政治家名の情報が得られなかったので、ネットでも
調べました。

USAIDは、日本政府や企業と協力しながら、さまざまな国際開
プロジェクトを実施しており、以下の分野での連携が注目されて
います。

インフラ整備:東南アジアやアフリカにおける道路、港湾、
       エネルギー施設の建設支援。
保健医療:感染症対策、母子保健支援、医療機器の提供。
教育支援:学校建設、教育プログラムの展開。
人道支援:紛争地域や災害発生国への緊急支援。

日本の政治家は以下のような形で関与が見られます。
自由民主党の外務関係者が、USAIDと共同で開発プロジェクト
枠組みを決定。

歴代の外務大臣が、USAIDとの協議を通じて、日本の援助方針を調整。
国会議員が、ODAの使途についてUSAIDと協議し、特定の国や地域
への援助を促進。

このように、日本の外交戦略はUSAIDの方針と調整しながら進められる
ことが多く、米国の影響を受けることもあります。

米国政府は、USAIDを活用して以下のような目的を達成しようとして
いました。(解体されたので、過去形)
アジア太平洋地域での影響力拡大:インフラ支援を通じて経済的な
                影響力強化。
対中国政策:日本と共同で第三国におけるインフラ開発を推進。
民主化支援:日本の援助資金を活用して、民主主義の発展を促進。

日本政府は独自の開発援助政策を持っていますが、USAIDの戦略と
調整しながら進める必要があります。

特に、日本の政治家が国際会議やG7などの場で開発援助を表明す
際には、米国の意向が反映されることが少なくありません。

例えば、アフガニスタン復興支援における日本のODAの使い方。
 アフリカ開発会議(TICAD)におけるUSAIDとの協力。
 SDGs(持続可能な開発目標)実現のための米日共同イニシアチブ。

10名の政治家(関連が指摘された人物)
1.      北岡伸一(元JICA理事長)
2.      岸田文雄(元内閣総理大臣)自民党
3.      河野太郎(元外務大臣)自民党
4.      岡田克也(衆議院議員)立憲民主党
5.      寺田稔(元総務大臣)自民党
6.      塩村あやか(参議院議員)立憲民主党
7.      空本誠喜(元衆議院議員)日本維新の会
8.      谷合正明(参議院議員)公明党
9.      笠井亮(衆議院議員)日本共産党
10.     浜口誠(参議院議員)国民民主党

ICAN(International Campaign to Abolish Nuclear Weapons)は、
核兵器の廃絶を目指す国際NGOで、その関連討論会に参加した4名は

谷合正明(参議院議員)公明党
笠井亮(衆議院議員)日本共産党
浜口誠(参議院議員)国民民主党
櫛渕万里(衆議院議員)れいわ新選組

ODA(政府開発援助)特別委員会のメンバーとされる11名
1.      櫛渕万里(衆議院議員)れいわ新選組
2.      石井浩郎(参議院議員)自民党
3.      朝日健太郎(参議院議員)自民党
4.      臼井正一(参議院議員)自民党
5.      比嘉奈津美(元衆議院議員)自民党
6.      小西洋之(参議院議員)立憲民主党
7.      青木愛(参議院議員)国民民主党
8.      松下新平(参議院議員)自民党
9.      山田太郎(参議院議員)自民党
10.     伊藤孝江(参議院議員)公明党
11.     福島瑞穂(参議院議員)社民党

上記リストは、あくまでX上で話題になっている「関連している
可能性があるかもしれない政治家」の一覧であり、確実な証拠が
あるわけではありません。

出典:【本当か】USAIDに関連する日本の政治家はだれ?
    リストが公開|ひかりまで一歩

アメリカのメディアがUSAIDと日本政府の関係について報じる理由は、
地政学的な動向や援助戦略、透明性の問題など、より広い視点での
議論を促すためです。具体的な証拠がない場合でも、そのような報道は
公共の関心を呼び、責任を問う議論を活性化させることがあります
また、報道機関は疑惑や主張について情報を提供し、さらなる調査
余地を残すことを目的とすることもあります。これは、決定的な証拠が
ない場合でも、潜在的な問題について考える機会を提供するという
ジャーナリズムの慣習に沿ったものです。

ウクライナへの支援は総額1兆8700億円(約121億ドル)
地雷除去機材の提供や人材支援が3000億円、
世界銀行を通じた融資や財政支援9000億円、
ロシアの凍結資産の運用益を活用した融資4700億円

それ以外に日本はウクライナが世界銀行で10億ドル
(1547億円)のソフトローンを組む際に50億ドル
(約7600億円)分の債務を肩代わりすることを保証しています

これは岸田元首相が訪米してアメリカで演説した際に
債務保証をすることでウクライナへの融資がスムーズに
いくようになるという報道で立証されているのではないかと
思います。(結局アメリカが武器を売っても日本が払うことになる

債務保証は閣議決定で実行されるようで国会での審議を経ずに
5000億円がウクライナに供与されています。

何故10億ドルの融資に対して50億ドルの保証が必要かというと
ウクライナの支援強化とその復興を支援するため、国際金融機関
からの融資を確保するための戦略があると記載されています。

結局その保証額を入れると、2022年から3兆円近い資金が流れています。

日本のODA支出は毎年1.3兆円から1.7兆円で、外務省分は5−6000億円
ですが、財務省分はJICAや国際金融機関への出資が1000億円位あります。
(これは財務省の天下り先では?)他に経済産業省のインフラ輸出支援、
農林水産省の農業協力、国土交通省の水資源管理、内閣府のPKO等の
国際貢献事業から捻出されていると思われます。

日本のODA(政府関係援助)における累計貸付額(円借款)は2022年
時点で12兆円(1331億ドルになっています。これらがきちっと返済
されるかの監視も必要と思います。

因みに中国には3.65兆円のODA支援を行い、2018年には終了し、
全額返済され地帯はなしとのことです。

対外援助で言うと、ウクライナへの援助は大きいですが、ガザへの
援助は年間150億円の人道援助のみで200分の1くらいとなっています。

ガザへの支援が少ないのは、戦争の規模、支援の性質、国際的な戦略、
政治的背景などによるものですが、アメリカがイスラエルを支持し
いることが大きいと思われます。

日本政府は国際機関やNGOを通じて外交的なトラブルを回避しつ
援助を行う姑息な対応をしています。

USAID解体により、日本政府はアメリカの影響下ではなく、独自の
戦略と世界平和のための外交戦略を取れるようになってほしいと
思います。

また、日本の政治家でUSAID関連で名前が挙がった議員がいくらお金を
もらったかと言った具体的な数字は明らかになっていませんが、お金を
出した側が関係した政治家を挙げている以上、日本の国税庁も個別
調査する(場合によっては国会での尋問)とともに、アメリカの報
機関とも連携して実際にどれくらいのお金が流れたかの調査をきちっと
してほしいと思います。

出典:
Vol.378   <2025年4月19日>
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2025年03月22日

日本と国連・アメリカとの間の条約について

日本と国連・アメリカとの間の条約についてCopilotに聞いてみました。

国連への資金拠出額が多い国のトップ5は以下の通りです(累積額は推定)
1.      アメリカ合衆国: 国連予算の約22%を負担しており、累積額は
        数千億ドル規模とされています。
2.      中国: 最近では約12〜15%の分担率で、累積額は数百億ドル。
3.      日本: 約8〜8.5%の分担率で、累積額は数百億ドル規模。
4.      ドイツ: 約6%の分担率で、累積額は日本に次ぐ規模。
5.      イギリス: 約4.5%の分担率で、累積額はドイツに近い規模。

これらの国々は経済力に基づいて分担金が決定されており、国連の活動を
支える重要な役割を果たしています。

日本が国連憲章で負っている義務と権利をまとめました。
義務
1.      平和的解決の義務: 国際紛争を平和的手段で解決し、
  国際の平和と安全を危険にさらさないよう努めること。
2.      武力行使の禁止: 他国の領土保全や政治的独立に対する
   武力の威嚇や行使を慎むこと。
3.      国連の決定の遵守: 国連憲章に基づく決定や行動に協力し、
  必要な援助を提供すること。
4.      人権の尊重: 人種、性別、言語、宗教による差別をなくし、
   基本的人権と自由を尊重すること。
権利
1.      主権平等: 国連加盟国として、他の加盟国と平等な主権を
  持つこと。
2.      国際協力への参加: 経済的、社会的、文化的、人道的問題の
   解決に向けた国際協力に参加する権利。
3.      安全保障理事会への関与: 国際の平和と安全を維持するための
   安全保障理事会の活動に関与する権利。
4.      国際司法裁判所への提訴: 国際紛争を国際司法裁判所に提訴
  する権利。

日本においては、国連への義務遂行と国内法との関係は、憲法や
法制度の枠組みで定められており、憲法第98条第2項: 日本の憲法には、
「締結した条約及び確立された国際法規は、これを誠実に遵守する
ことを必要とする」と記され。日本が締結した国際条約や国際法規は、
国内法に優越すると解釈されています。

実際の運用
国際法や国連義務が国内法に優先する場合でも、国内法に基づく
実施法が必要とされることがあります。これにより、国際的な義務
国内で適切に履行される仕組みが整えられます。
国連への義務遂行が国内法や憲法と矛盾する場合、調整が必要と
なります。その際には、憲法や法改正を通じて問題が解決されることが
あります。

例外や制約
ただし、国内法が国際的な義務に抵触する場合、日本国内でどのように
その義務を履行するかが議論の対象となります。また、国民の権利
安全を保護する観点から、国際的な義務に対して一定の制約が設けられる
場合もあります。

サンフランシスコ講和条約(日本国との平和条約)の全文は著作権
関係でここに直接記載することはできません。ただし、以下のリン
から全文を閲覧することができます:
サンフランシスコ平和条約(日本国との平和条約)
https://worldjpn.net/documents/texts/docs/19510908.T1J.html -
Wikipediaの解説ページ

サンフランシスコ講和条約の第11条には、東京裁判(極東国際軍事裁判所)
に関する記述があります。この条項では、日本が東京裁判およびその他の
連合国戦争犯罪法廷の判決を受諾し、それらの法廷によって課された刑を
執行する義務を負うことが明記されています。

サンフランシスコ講和条約で完結した事項
戦争状態の終了: 日本と連合国との戦争状態は条約の発効によって
        正式に終了しました。
領土の放棄: 日本は朝鮮、台湾、千島列島などの領土に対する権利を
      放棄しました。
賠償請求の放棄: 連合国側は日本に対する賠償請求を放棄し、
        日本も連合国に対する請求を放棄しました。

現在も影響を及ぼす可能性のある事項
領土問題: サンフランシスコ講和条約では、北方領土や竹島、尖閣諸島
     などの領土問題が完全に解決されていないため、これらの
     問題は現在も外交上の課題として残っています。
戦争犯罪の受諾: 東京裁判の判決を受諾する義務は現在も有効であり、
        これが歴史認識問題に影響を与えることがあります。
未締結国との関係: サンフランシスコ講和条約に調印していない国
     (例: ソ連、中国)との間では、別途条約や合意が必要となり、
      これが現在の外交関係に影響を与えることがあります。

サンフランシスコ講和条約の本文は歴史的な公式文書です。
著作権法の観点から見ると、こうした政府や公的機関が作成した文書は
一般的に著作権の保護対象外とされることが多いです。
(日本人に見れないようにしているのでは?)

現在、日本とアメリカの間で結ばれている主な条約には以下のよう
ものがあり、憲法で国内法よりも優越するとされています
1. 日米安全保障条約
 ( 日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力及び安全保障条約)
   日本の防衛と極東地域の平和と安定を目的とした軍事同盟条約です
  アメリカ軍の日本駐留や共同防衛義務が規定されています。
2. 日米地位協定
  日米安全保障条約に基づき、在日米軍の地位や法的権利、義務を
 定めた協定です。基地の使用や米軍関係者の法的扱いなどが含まれます。
3. 日米貿易協定
  両国間の貿易を促進するための協定で、特に農産品や工業製品の
  関税削減が含まれています。
4. 日米科学技術協力協定
  科学技術分野での協力を促進するための協定で、研究開発や技術交流。
5. 日米宇宙協力協定
  宇宙開発や宇宙利用における協力を規定した協定。人工衛星や宇宙探査。

目下のところ、トランプ大統領が米国で選ばれ、今までのDeep Stateと
言われる支配体制から脱却しょうとしています。日本もその流れに乗って
既得権益で今まで日本を牛耳っていいた勢力(USAID支援を受けたマスコミ、
財務省)から脱却するチャンスです。

石破総理(又は次期総理)には、トランプ大統領と対峙し、憲法第98条
2項を改正しサンフランシスコ講和条約を含む上記5のアメリカと
協定の修正交渉を行い日本の独立を勝ち取ってもらいたいと思います。

また、国連では日本を敵国とした条項も残っており、累積で多額の拠出を
しているにも拘らず、常任理事国にもなれず、何も決まらない第二次世界
大戦戦勝国連合なので、拠出額を大幅に減らすか、脱退して別の形
国際貢献をしてはどうかと思います。

出典:
Vol.374   <2025年3月22日>
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日本近現代史に隠された3つの謎を紐解く


<GHQ焚書アーカイブス>

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アメリカはいつから日本を“敵”として見ていた?


約2年半の歳月をかけて
制作してきた、ビッグプロジェクト
『日米外交裏面史 ~ 謀略の100年戦争』
全5巻がついに完成いたしました!



講師を務めるのは、
国際政治学者・藤井厳喜氏や、
東京大学名誉教授・小堀桂一郎氏など、

保守言論の重鎮たちから
多大な評価を受ける

日米近現代史研究家 渡辺惣樹氏です。

講座の完成を記念して、
本日から5日間、
特別なご案内がございます。

まずはこちらをご覧ください。

>詳細はこちら

=====

2025年

今年で、日米大戦の終結から
80年がたとうとしていますが…

あなたはご存じでしょうか?

ペリー来航による開国以降、
日本とアメリカの関係が
“ある時” までは、
極めて良好だったことを…

しかし、“ある時” を境に、
アメリカは日本のことを
将来戦うであろう「敵」として
認識し始めたのです。

アメリカが心変わりをしたのは
いったい、いつのことだったのでしょうか?
(※真珠湾攻撃のときではありません)



>詳細はこちら
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2025年02月19日

最恵国待遇をフル活用して各国と平和的に通商条約締結

■7.最恵国待遇をフル活用して各国と平和的に通商条約締結

その後、日米和親条約をモデルに、
同年8月に対イギリス、

翌安政元(1855)年2月、対ロシア、
安政2(1856)年12月に対オランダ
と同様の条約が結ばれました。

この頃には、アヘン戦争以降、
最恵国待遇の考え方が急速に
国際法にのしあがっていました。

これは日本が他国に提供した好条件は、
自国にも展開されるという約束です。

逆に言えば、後発のイギリスやロシアに対して、
アメリカと同じ条件なら日本はすぐにでも条約を結べますが、

それより良い条件を求めたら、
途端に難しくなります。

正弘以下、当時の幕閣は
この最新の国際法を理解・活用して、

まず米国との間に穏健な和親条約を結んで、
他国のそれ以上の要求に蓋をしたのです。

このアプローチは安政5(1858)年6月に結ばれた
日米修好通商条約でも成功しました。

7月に対オランダ、ロシア、イギリス、
9月に対フランスと同様の条約を立て続けに結びました。

各国を横並びとして、
相互に牽制させるということで、

無事に西洋列強との間で、
平和的な通商が開かれました。

この頃には正弘は長年の激務から病没していましたが、
岩瀬忠震(ただなり)ら、正弘が引き立てた人物が、
見事な結果を遺しました。

修好通商条約について、領事裁判権がない、関税自主権がない、
という批判がなされていますが、それには事情がありました。

まず当時の平和で安全な日本の刑罰は
欧米よりもはるかに犯罪者に厳しく
(民家に押し入って10両以上を奪えば、死罪・さらし首)、

そのまま外国人に適用すれば、
国際問題に発展しかねないこと。

また輸入関税は20%と当時の欧米列強が
互いに課していた率と同程度の水準でした。

しかし、その後の長州の下関戦争などで、
5%に下げさせられ、関税自主権を失ったのです。

こうして、正弘のリーダーシップにより、
我が国は平和裏に開国と交易開始を実現できました。

その他にも、正弘は安政2(1855)年に、
長崎海軍伝習所(のちの海軍兵学校)、

翌年には蕃書調所(洋学の人材育成、後の東京大学)、
築地講武所(西洋式の大砲・小銃訓練、後の陸軍兵学校)
と近代日本の躍進を支える人材育成の組織を作り上げました。

明治日本が開国後わずか60余年で、
国際連盟理事国という世界の指導的大国に飛躍する、
その第一歩が正弘が導いた平和的開国でした。
(文責 伊勢雅臣)

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ペリーの足下を見る正弘



///講座完成記念///

日米開戦の運命は
100年前から決まっていた…?



「ペリー来航の時代から日米史を読み解く」

というテーマで、約2年半にわたり
制作し続けてまいりました講座

日米外交裏面史〜謀略の100年戦争〜
がついに完結。

開国当初は友好的だった両国は、
なぜ最終的に未曾有の戦争へと
突入していったのでしょうか?

答えはこちらから…


>詳しく知る

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

★阿部正弘 〜 平和的開国のリーダー

筑波大学非常勤講師
伊勢雅臣

阿部正弘率いる幕末の幕閣は、
高い外交能力を駆使して、
平和的な開国を成し遂げた。

■1.「幕府の高い外交能力は特筆されるべき」
__________
黒船来航と日本開国について、
日本には今なお次のような理解が広く存在している。

(1)無能な幕府が、
(2)強大なアメリカの軍事的圧力に屈し、
(3)極端な不平等条約を結んだとする説である。・・・

しかし、日本側の記録にとどまらず、
日米双方の資料を丹念に読み、

さらに英米競争の資料や中国情報、
オランダ情報などを総合的に読むと、

幕府無能無策説・アメリカ軍事圧力説・極端な不平等条約説
という三段論法は、歴史の実像と大きくかけ離れていることが分かる。[加藤、p208]
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

こう語るのは、加藤祐三・横浜市立大学名誉教授の
『幕末外交と開国』です。

加藤教授は「歴史の実像」をこう表現しています。
__________
日米和親条約は一門の大砲も火を噴かず、
平和的な交渉によって結ばれた。

これが最重要の論点だと私は考える。
戦争を伴わない条約を私は「交渉条約」と名づけ、
戦争の結果としての「敗戦条約」と対比させている。

・・・アジア近代史から見れば、
日米和親条約のような「交渉条約」は稀有の事例である。・・・

日本外交史のなかでは、
幕府の高い外交能力は特筆されるべきであろう。[加藤、p210]
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

「敗戦条約」の典型例が、
清の開国です。

清はイギリス商人によるアヘンの密輸を禁じて、
イギリスとの間の戦争となり、

1842年の南京条約で莫大な賠償金を支払い、
香港を奪われました。

その結果、それまで清国が朝貢貿易として
厳格に管理していた貿易を、

イギリスの武力に屈して
自由貿易とされたのです。

これに比べれば、我が国の開国が
平和的に成し遂げられたことの意義がよく分かります。

■2.25歳で老中首座となった阿部正弘

加藤教授の言う「幕府の高い外交能力」を指揮したのが、
老中首座・阿部正弘(あべ・まさひろ)でした。

老中首座とは、今日で言えば、
総理大臣にあたります。

正弘は、備後国(広島県東部)福山藩
第5代藩主・阿部正精(まさきよ)の5男として、
文政2(1819)年に生まれました。

正精は42歳で老中となり、
6年間在職しました。

公平廉潔で、第11代将軍家斉(いえなり)の
汚れた側近とは合わず、病と称して辞職しました。

その後、正精はみずからオランダ語を習い、
家中に天文学を学ばせています。

家督を継いだ兄・正寧が病弱のため、
正弘が第7代藩主を継ぎました。

そして、23歳にして老中、
25歳にして老中首座と異例の出世をしました。

寺社奉行の際に、大奥の一悪女による
将軍家乗っ取り事件を見事解決して、

12代将軍・家慶(いえよし)に
大抜擢されたのです。

清新な老中の誕生に、江戸市中も大喜び、
神輿(みこし)や提灯(ちょうちん)行列まで繰り出されました。

■3.練達のオランダ外交官ドンクル・クルチウス

嘉永5(1852)年7月、正弘が33歳の時に、
新しいオランダ商館長ドンクル・クルチウスが来日し、
オランダ国王からの公文書を持参しました。

その中に、「アメリカが通商要求のために、
艦隊を日本に派遣する」という情報が書かれていました。

オランダ商館長はそれまで200年余り、
ずっと民間人でしたが、
クルチウスは39歳の練達の外交官でした。

今後、アメリカをはじめ、
西洋列強が次々と日本に通商を要求してくると読んで、

経験豊かな外交官を配置して、
先を越されまいとしたのです。

正弘は、長崎奉行を経由してクルチウスから、
さらに助言を得ました。

その中で、特に参考となったのが、
「遠洋航海の蒸気軍艦は
大量の石炭を搭載せねばならず、
その分、水や食料を減らさざるを得ない。

米艦隊の最大目的は
大統領の国書を将軍にとどけることで、

日本が早期に受理に応じれば、
戦争の回避ができる」という点でした。[穂高、p185]

一回目の来航の際に、長崎へ回航せよ、
という日本の指示をペリーが断った際に、

「下田で受け取ろう」と正弘が決断したのは、
この情報からでしょう。

クルチウスは、ペリーに対しては
どんな約束も先延ばしが良い
とアドバイスしましたが、

「日本は開国しなければ世界の潮流に乗れない」
とも言いました。

いずれは開国と、正弘の腹は決まっていました。
しかし、国内には水戸の斉昭(なりあき)公など、
口やかましい攘夷派がいます。

どのようにして攘夷派の反発を抑えつつ、
かつ、日本の独立を守ったまま開国に持って行くか、
そこに正弘の苦心がありました。


■4.着々とうたれた国防強化策

ペリー率いる黒船艦隊は、
嘉永6(1853)年6月3日(旧暦)に、
浦賀沖に姿を現しました。

浦賀奉行所が長崎に回航するよう言いましたが、
ペリーは当地でしかるべき高官に
大統領からの国書を渡すと言って聞きません。

さもないと、兵とともに江戸に上陸して、
国書を届ける、とも言います。

翌4日、正弘は幕閣全員に登城を命じ、
国書を受理すべきかどうか、議論させました。
議論百出、何も決まりません。

正弘は泰然と正座して、
議論を聞くのみでした。

長い議論の末に、ようやく大勢が
戦いを避けるための国書受理に傾いた時、

正弘は「家慶将軍の英断を仰ごう」と言って、
将軍の御前に出ました。

それしか、斉昭を抑える術(すべ)はありません。

しかし、正弘から初めて黒船の件を聞いた将軍は
ショックで倒れてしまいます。

正弘はやむなく自身で夕方頃、斉昭邸に行き、
深夜まで延々と話す斉昭の持論を聞きました。

ところが結論は「いまとなっては、
打払いが良いとは言えぬな」。

「こんな一言を聞くために、
国家存亡の秋(とき)に数時間も費やしたのか」
と正弘は腸(はらわた)が煮えくり返る思いをしました。

6月8日、将軍に謁見の資格のある
旗本以上の全員に対して、

江戸城への総登城を命じ、
国書を受けとることを伝えました。

国交のない国からの国書を受け取ることは、
鎖国後、初めてでした。

鎖国の一角が数日で崩れたのです。

同時に正弘は着々と
国防強化の手を打っていました。

6月15日には、
西洋砲術の権威・江川英龍(ひでたつ)を呼んで、

江川が提案していた江戸・品川沖での
台場建設を命じました。

黒船の大砲の射程4〜5キロからして、
江戸の街に弾が届かないように11基の台場を構築し、
そこに大砲を並べるのです。

ペリーの第二次来航までに
8つの台場が完成しました。

現在、その一部が台場公園
として解放されています。

6月19日には、
オランダに蒸気軍艦を発注しました。

それもアメリカの蒸気船が船側に外輪をつけた
遅れた形式のものに対して、
スクリュープロペラの最新技術の船です。

正弘は一年前にオランダから
黒船来航の情報がもたらされた時に、
すぐに見積もりを依頼していたのです。

これにより、「大船建造の禁」という
鎖国のもう一つの柱を撤廃しました。

この最初の納品が
「咸臨丸(かんりんまる)」で、

この7年後、万延元(1860)年、
日米修好通商条約の批准書を交換するため、
遣米使節団が派遣された際、

正使一行が乗艦するアメリカ軍艦
「ポーハタン」の別船として派米。

米士官たちの助けはあったものの、
勝海舟や福澤諭吉を乗せ、
日本人中心の操船で太平洋を往復しました。

また、もう一つ、正弘は幕府始まって以来の
重大な変革を行いました。

受け取った国書を広く公開して、
「どんな意見も差し支えない。自由に申せ」
と呼びかけたのです。

幕府はそれまで外様大名にも
「御政道」に口出しをさせませんでした。

それが一挙に町人まで含めて、
自由な言論を認めたのです。

提出された意見書は
記録に残るものだけで719通。

大名(藩主)とその家臣、幕臣、学者、
さらに吉原の遊女屋主人の意見までありました[加藤、p86]。

これは五箇条の御誓文の「万機公論に決すべし」
とつながっていく、日本の近代民主主義の起点となりました。

同時に国民各層に迫り来る列強の実情を知らせ、
その対応を「我が事」として考える
国民国家への道の始まりでもありました。


■5.ペリーの足下を見る正弘

ペリーは1年後に回答を貰いにくる
と言い残して去りましたが、

第二回の来航は
翌嘉永7(1854)年1月16日と、
前回の半年後でした。

前倒しの理由の一つは、
ロシアのプチャーチンが
ペリーの第一回来航のすぐ後にやってきて、
国交要求をしたことでした。

ロシアに先を越されたら、
ペリーの面目は丸つぶれになります。

しかし、日本側はロシアとは
樺太・千島の領土問題があり、

まずはアメリカとの
穏やかな条約をまとめた後でと、
「ぶらかし(引き延ばし)戦術」をとりました。

もう一つの理由は
「米国の大統領選だろう」
と正弘は読んでいました。

クルチウスからも、またジョン万次郎からも、
アメリカは大統領が変われば政策ががらりと変わる、
と聞いていました。

万次郎は土佐の漁師で、漂流中、
アメリカの捕鯨船に救われ、

そのままアメリカで教育を受けて
船長にまでなった人物です[JOG(252)]。

正弘は会見場所に関する折衝で
時間を引き延ばしながら、

浦賀奉行所に探りを入れさせると、
大統領が民主党のピアスに変わり、

前大統領の対日戦略も
継承されないことが分かりました。

前大統領の命令で来航しているペリーも
今回の来航で話をまとめなければなりません。

ペリーは「こちらの要望事項が承認されない場合は、
近海に50隻、カリフォルニアに50隻の軍艦を用意している」と脅しましたが、

オランダが毎年送ってくる国別の軍艦情報では、
アメリカはあと5隻を日本近海に回せるのが限界です。
ペリーのはったりは日本側に見破られていました。[穂高、p266]


■6.林大学頭のペリー論破

こうして相手側の足元を見た上で、
3月8日に横浜村で林復斎・大学頭(だいがくのかみ)が
応接掛としてペリーと談判をしました。

冒頭、ペリーが
「日本は近海の難破船も救助せず、
近寄る外国船には発砲し、

漂着した外国人は罪人扱いして投獄する」
と批判しましたが、

林はここ150年ほどの対外関係資料を
国別時代別にまとめた人物です。
次のように簡単に論破しました。
__________
貴官の言うことは事実に反することが多い。
・・・我が国の人命尊重には世界に誇るべきものがある。

この三百年にわたって
太平の時代がつづいたのも、
人命尊重のためである。

・・・他国の船が我が国近辺で難破した場合、
必要な薪水食料に十分の手当てをしてきた。

・・・漂着民は手厚く保護し、長崎に護送、
オランダカピタンを通じて送還している。[加藤、p147]
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

ペリーはやむなく
「今後も薪水食料石炭の供与と難破船救助を
堅持されるならば結構である」と矛を収めました。

続いて「では、なぜ交易の件は承知されないのか」と問います。
林はこう反論しました。
__________
先に貴官は、第一に人命の尊重と船の救助と申された。
それが実現すれば貴官の目的は達成されるはずである。
交易は人命と関係ないではないか。[加藤、p148]
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

ペリーはしばらく別室で考えた末に
「交易の件は強いて主張しない」と、
あっさり通商要求を取り下げました。

ペリーとしては、通商要求で
日本側とややこしい議論に入って
交渉そのものが破綻したら、

おめおめと失敗者として
帰国しなければならない、
と恐れたのでしょう。

正弘は「ペリーの再来航で開国する。
しかし、交易は数年先にする」と、

国交と交易を切り離して進める
戦略を抱いていました。

国交と言っても、
薪水食料石炭の供与と難破船救助程度なら、

12年前に発した「薪水給与令」を、
米国との条約に書き込むだけに過ぎません。

交易はアヘン戦争の例もあり、
国内の攘夷派との説得に時間がかかります。
この戦略通りに和親条約はまとまりました。
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ペリー来航の時代から日米史を読み解く

開国当初は友好的だった両国は、
なぜ最終的に未曾有の戦争へと
突入していったのでしょうか?

答えはこちらから…


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◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

★阿部正弘 〜 平和的開国のリーダー

筑波大学非常勤講師
伊勢雅臣

阿部正弘率いる幕末の幕閣は、
高い外交能力を駆使して、
平和的な開国を成し遂げた。

■1.「幕府の高い外交能力は特筆されるべき」
__________
黒船来航と日本開国について、
日本には今なお次のような理解が広く存在している。

(1)無能な幕府が、
(2)強大なアメリカの軍事的圧力に屈し、
(3)極端な不平等条約を結んだとする説である。・・・

しかし、日本側の記録にとどまらず、
日米双方の資料を丹念に読み、

さらに英米競争の資料や中国情報、
オランダ情報などを総合的に読むと、

幕府無能無策説・アメリカ軍事圧力説・極端な不平等条約説
という三段論法は、歴史の実像と大きくかけ離れていることが分かる。[加藤、p208]
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

こう語るのは、加藤祐三・横浜市立大学名誉教授の
『幕末外交と開国』です。

加藤教授は「歴史の実像」をこう表現しています。
__________
日米和親条約は一門の大砲も火を噴かず、
平和的な交渉によって結ばれた。

これが最重要の論点だと私は考える。
戦争を伴わない条約を私は「交渉条約」と名づけ、
戦争の結果としての「敗戦条約」と対比させている。

・・・アジア近代史から見れば、
日米和親条約のような「交渉条約」は稀有の事例である。・・・

日本外交史のなかでは、
幕府の高い外交能力は特筆されるべきであろう。[加藤、p210]
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

「敗戦条約」の典型例が、
清の開国です。

清はイギリス商人によるアヘンの密輸を禁じて、
イギリスとの間の戦争となり、

1842年の南京条約で莫大な賠償金を支払い、
香港を奪われました。

その結果、それまで清国が朝貢貿易として
厳格に管理していた貿易を、

イギリスの武力に屈して
自由貿易とされたのです。

これに比べれば、我が国の開国が
平和的に成し遂げられたことの意義がよく分かります。

■2.25歳で老中首座となった阿部正弘

加藤教授の言う「幕府の高い外交能力」を指揮したのが、
老中首座・阿部正弘(あべ・まさひろ)でした。

老中首座とは、今日で言えば、
総理大臣にあたります。

正弘は、備後国(広島県東部)福山藩
第5代藩主・阿部正精(まさきよ)の5男として、
文政2(1819)年に生まれました。

正精は42歳で老中となり、
6年間在職しました。

公平廉潔で、第11代将軍家斉(いえなり)の
汚れた側近とは合わず、病と称して辞職しました。

その後、正精はみずからオランダ語を習い、
家中に天文学を学ばせています。

家督を継いだ兄・正寧が病弱のため、
正弘が第7代藩主を継ぎました。

そして、23歳にして老中、
25歳にして老中首座と異例の出世をしました。

寺社奉行の際に、大奥の一悪女による
将軍家乗っ取り事件を見事解決して、

12代将軍・家慶(いえよし)に
大抜擢されたのです。

清新な老中の誕生に、江戸市中も大喜び、
神輿(みこし)や提灯(ちょうちん)行列まで繰り出されました。

■3.練達のオランダ外交官ドンクル・クルチウス

嘉永5(1852)年7月、正弘が33歳の時に、
新しいオランダ商館長ドンクル・クルチウスが来日し、
オランダ国王からの公文書を持参しました。

その中に、「アメリカが通商要求のために、
艦隊を日本に派遣する」という情報が書かれていました。

オランダ商館長はそれまで200年余り、
ずっと民間人でしたが、
クルチウスは39歳の練達の外交官でした。

今後、アメリカをはじめ、
西洋列強が次々と日本に通商を要求してくると読んで、

経験豊かな外交官を配置して、
先を越されまいとしたのです。

正弘は、長崎奉行を経由してクルチウスから、
さらに助言を得ました。

その中で、特に参考となったのが、
「遠洋航海の蒸気軍艦は
大量の石炭を搭載せねばならず、
その分、水や食料を減らさざるを得ない。

米艦隊の最大目的は
大統領の国書を将軍にとどけることで、

日本が早期に受理に応じれば、
戦争の回避ができる」という点でした。[穂高、p185]

一回目の来航の際に、長崎へ回航せよ、
という日本の指示をペリーが断った際に、

「下田で受け取ろう」と正弘が決断したのは、
この情報からでしょう。

クルチウスは、ペリーに対しては
どんな約束も先延ばしが良い
とアドバイスしましたが、

「日本は開国しなければ世界の潮流に乗れない」
とも言いました。

いずれは開国と、正弘の腹は決まっていました。
しかし、国内には水戸の斉昭(なりあき)公など、
口やかましい攘夷派がいます。

どのようにして攘夷派の反発を抑えつつ、
かつ、日本の独立を守ったまま開国に持って行くか、
そこに正弘の苦心がありました。


■4.着々とうたれた国防強化策

ペリー率いる黒船艦隊は、
嘉永6(1853)年6月3日(旧暦)に、
浦賀沖に姿を現しました。

浦賀奉行所が長崎に回航するよう言いましたが、
ペリーは当地でしかるべき高官に
大統領からの国書を渡すと言って聞きません。

さもないと、兵とともに江戸に上陸して、
国書を届ける、とも言います。

翌4日、正弘は幕閣全員に登城を命じ、
国書を受理すべきかどうか、議論させました。
議論百出、何も決まりません。

正弘は泰然と正座して、
議論を聞くのみでした。

長い議論の末に、ようやく大勢が
戦いを避けるための国書受理に傾いた時、

正弘は「家慶将軍の英断を仰ごう」と言って、
将軍の御前に出ました。

それしか、斉昭を抑える術(すべ)はありません。

しかし、正弘から初めて黒船の件を聞いた将軍は
ショックで倒れてしまいます。

正弘はやむなく自身で夕方頃、斉昭邸に行き、
深夜まで延々と話す斉昭の持論を聞きました。

ところが結論は「いまとなっては、
打払いが良いとは言えぬな」。

「こんな一言を聞くために、
国家存亡の秋(とき)に数時間も費やしたのか」
と正弘は腸(はらわた)が煮えくり返る思いをしました。

6月8日、将軍に謁見の資格のある
旗本以上の全員に対して、

江戸城への総登城を命じ、
国書を受けとることを伝えました。

国交のない国からの国書を受け取ることは、
鎖国後、初めてでした。

鎖国の一角が数日で崩れたのです。

同時に正弘は着々と
国防強化の手を打っていました。

6月15日には、
西洋砲術の権威・江川英龍(ひでたつ)を呼んで、

江川が提案していた江戸・品川沖での
台場建設を命じました。

黒船の大砲の射程4〜5キロからして、
江戸の街に弾が届かないように11基の台場を構築し、
そこに大砲を並べるのです。

ペリーの第二次来航までに
8つの台場が完成しました。

現在、その一部が台場公園
として解放されています。

6月19日には、
オランダに蒸気軍艦を発注しました。

それもアメリカの蒸気船が船側に外輪をつけた
遅れた形式のものに対して、
スクリュープロペラの最新技術の船です。

正弘は一年前にオランダから
黒船来航の情報がもたらされた時に、
すぐに見積もりを依頼していたのです。

これにより、「大船建造の禁」という
鎖国のもう一つの柱を撤廃しました。

この最初の納品が
「咸臨丸(かんりんまる)」で、

この7年後、万延元(1860)年、
日米修好通商条約の批准書を交換するため、
遣米使節団が派遣された際、

正使一行が乗艦するアメリカ軍艦
「ポーハタン」の別船として派米。

米士官たちの助けはあったものの、
勝海舟や福澤諭吉を乗せ、
日本人中心の操船で太平洋を往復しました。

また、もう一つ、正弘は幕府始まって以来の
重大な変革を行いました。

受け取った国書を広く公開して、
「どんな意見も差し支えない。自由に申せ」
と呼びかけたのです。

幕府はそれまで外様大名にも
「御政道」に口出しをさせませんでした。

それが一挙に町人まで含めて、
自由な言論を認めたのです。

提出された意見書は
記録に残るものだけで719通。

大名(藩主)とその家臣、幕臣、学者、
さらに吉原の遊女屋主人の意見までありました[加藤、p86]。

これは五箇条の御誓文の「万機公論に決すべし」
とつながっていく、日本の近代民主主義の起点となりました。

同時に国民各層に迫り来る列強の実情を知らせ、
その対応を「我が事」として考える
国民国家への道の始まりでもありました。
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2025年02月14日

開発協力


基礎資料

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要人往来・会談等

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日本国とアメリカ合衆国との間の相互防衛援助協定第7条及び附属書Gに基づく資金の提供(令和7年2月4日)

ラベル:日米関係
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